実はインタビュアーとして本人にお会いしてから、数日、どうしても疑問が解けないことがありました。七○歳を超えてから二度、そして四年後、八○歳になるときも三度目のエベレストに挑戦する。それはなぜなのか、そのパッションはどこからやってくるのか、なぜそのお歳でそんなに苦労して目標にチャレンジできるのか…。
普通の人間、それも七○歳過ぎの人間だったら、肉体的にも限界を感じ、好々爺としての余生に甘んじるはずです。孫の顔を見て、まあ、こんな人生だったけど、良しとするか、と多少の諦念を含めて、悠々自適の、日向ぼっこの余生をおくるはずです。なのに、なぜ。
思い当たりました。三浦雄一郎は「世界のミウラ」を一生かけて表現し続ける表現者なのだ、と。
よく役者は舞台で死ねたら本望だといいます。また、教育者でも、教壇の上で死ねられたら、それこそ最高の死に方だという熱血教師もいます。
作家が原稿用紙にうつ伏せになり事切れることを願望するように、三浦雄一郎は「世界のミウラ」を表現しつつ、「生」の完結を求めている、そんな気がするのです。彼三浦雄一郎は言います。エベレストは苦難の連続、しかし苦難に遭遇すればするほど、「生きたい」「生き続けたい」と無性に思う、と。そのつぶやきは、表現者として生きる以上、まず、生き続けなくてはいけないという魂の雄叫びのような気もするのです。
朝ぼらけ八十路五月のエベレスト
ドクター大善寺
コメント